新撰組の名が一躍有名になったという池田屋事件が、るろうに剣心の話の中で実際に登場している。池田屋事件については様々な本で解説されているので、ここではできるだけるろうに剣心と絡めてまとめることにする。また、事件と同じ時期にあった祇園祭の様子ついても考える。 なお、この項では原作以外にOVAの内容にも触れたい。 |
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この事件の活躍で、斎藤一は金17両を得る。 |
場所は京都の三条小橋の西、旅宿池田屋。長州や肥後の尊攘派浪士達によるある計画の集会が行われている所に新撰組が斬り込み、計画の実行を阻止したというのがこの事件だ。 るろうに剣心においてこの池田屋事件は、剣心の過去との絡みで何度か使われている。(コミックス巻之二十、OVA追憶編第二幕他) また志々雄真実が国盗り計画として池田屋事件を模す(ように見せかける)話もあったりするので、その点も見逃せない。(コミックス巻之十一P180〜) |
【6月5日と祇園祭の謎】 |
池田屋事件は祇園祭の山鉾巡行を控えた元治元年6月5日に起こった。池田屋事件について語られるときは祇園祭についてもよく触れられるが、原作でも賑わっている祇園祭の様子が出てくるのはご存じの通り。(コミックス巻之二十P43) ふと思ったのだが、現在の祇園祭(山鉾巡行)を7月17日としたのは何故なんだろう。単純に旧暦の祭の日を現代の暦に換算して決めたのだろうか。では旧暦の祇園祭の日は、正確にはいつだったんだろう。 ちなみに事件の日である元治元年6月5日(旧暦)を西暦に直すと1864年7月8日になる。現代の祭の日と全然違うんだなぁ..と思ったが、旧暦→西暦変換はその年によってかなり変わってしまうから元治元年を基準にしても仕方がない。 一方、新選組始末記(子母澤寛著)には、当時は6月6日が祇園祭だったということがしっかり書かれているが、旧暦の祇園祭は6月14日だったという話も訊くので、一体祇園祭はいつ行われたのかいまいちよく解らない。 実は祇園祭の山鉾巡行は、二回あったのだ。 月刊「京都」(白川書院)の97年7月号によると、江戸時代には旧暦6月7日と6月14日に山鉾巡行が行われていたという。7日と14日では巡行する山と鉾が違っており、現在のように祭りが一回になったのは1966年からなのだそうだ。 なぜ以前は二回もあったのかという詳細は省くが、6月7日が一回目の山鉾巡行の日であるから、池田屋事件の6月5日は「宵々山」にあたる。子母澤氏の言う6月6日も確かに祇園祭であるが、祇園祭の「宵山」という意味ではないのだろうか。もしくはこの年は6月6日が山鉾巡行の日だったのか? ところで宵々山という言葉自体はきっと後から出来たものだと思うが、これはクリスマスイブの前の日をイブイブというような、個人的に非常に恥ずかしい言葉が生まれては消えてゆくのと同じ様なものだろう。 まあそんなことはいいのだが(なら書くな)、旧暦と祇園祭と池田屋事件との関係については私自身もこの程度しかわからないので、情報を頂けると嬉しい。 |
【6月5日は賑わっていたか?】 |
一般には山鉾巡行やその前日の宵山が祇園祭のメインと思われているが、もともと祇園祭というのは八坂神社の神事であり、八坂神社としては八坂からの神輿(みこし)巡行が祭の中心と言えるようだ。
そういわけで、以前の宵山というのは現在のような一大イベント(!)ではなかったそうだ。もちろん祭だから山鉾巡行当日は賑やかだったであろうが、「前日」は町の住民が宴をする程度であったという。現在のように山鉾が並ぶ通りに見物客が溢れ帰っていたというわけではないのだろう。前述の月刊「京都」にある昭和35年の宵山の写真を見ても、確かに閑散としているのが分かる。 一枚の写真ではなんとも言えないし、当時も夜になると人が増えてきたかもしれないが、池田屋事件のあった日の京都の通りが現在のように多くの見物客で賑わっていたかどうかは非常に怪しい。 なお、この後7月18日の禁門の変で京都が火の海となるが、山鉾もたくさん燃えてしまい、翌年は山鉾巡行が中止となる。 |
長刀鉾 |
祇園祭の様子。これは長刀鉾。
逆刃刀鉾ってあったらいいなあ(笑)
人の数が尋常じゃない。 |
【百目ろうそくで拷問】 |
祇園祭との関係からようやく話を戻すと、池田屋に集まった志士達の計画というのは次のようなものだ。京に火を放ち、その混乱で長州勢を京に率いれ、天皇を長州に連れ去る、佐幕派公卿など対立する人物を討つ。
この計画は、6月5日の朝、四条小橋付近に住む桝屋喜右衛門(ますやきうえもん)こと古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)が武田観柳斎ら新撰組に連行され、その後拷問にかけられ白状することで発覚する。間もなく同志の集会がどこかで行われることもこの時わかる。OVAの第二幕でも触れられている部分である。 さて、打っても打ってもなかなか吐かなかい古高に対して加えた拷問は、足の裏に五寸釘を打ち、その上に火のついた百目ろうそく(*)を立てるというものだったらしい。原作で、志々雄と蒼紫の同盟により葵屋への襲撃が行われる話があるが、この時の「梟爪衆」に対して葵屋の翁が加えた拷問が、同じくろうそくと五寸釘を使ったものである。(コミックス巻之十一P84) TV版ではさすがにこの辺は変えられているが、原作で見ると痛々しさが伝わってくる。 なお、古高の住んでいた所は現在「志る幸」という料理屋になっている。 * 百目ろうそく=一本100匁(約375g)ある大きなろうそくのこと |
【斎藤一の行動】 |
TV版では、池田屋へ斎藤一と沖田総司が先頭となって斬り込むシーンがある。(TV版第二十八幕)
しかし実際は斎藤が池田屋へ到着したのはもう少し後になる。
もっともこの場合、るろうに剣心において斎藤が主要なキャラなので史実と違えどこのようにしたのだろうと私は思っている。TV版で池田屋事件を扱う頃は、原作でも追憶編がまだ存在していなかったし、アニメ用に創作したのだろう。 その辺の設定について私は別に構わないが、OVA版では斎藤はちゃんと「後から来た」という設定になっている。 ちなみに斎藤が後から来たのはOVAを見ても分かる通り、隊を二つに分けていたからだ。 |
近藤らは22:00頃池田屋を発見する。そして斬り合いの最中に土方の率いる隊が到着したのである。 |
【桂小五郎の行方】 |
これは原作やOVAで触れられている通り、新撰組が池田屋に到着した時、桂小五郎は対馬藩邸にいたため無事だった。実際桂小五郎は20:00頃に池田屋に来ていたが、人が揃っていないので対馬藩邸に向かったのである。だが宮部鼎蔵(みやべていぞう)、吉田稔麿(よしだとしまろ)ら多くの志士は、命を落とすこととなった。 |
明治維新が1年遅れたと言われるこの惨劇の場は、今は碑が立っているだけで意識しなければ「全く」気が付かない場所である。 剣心はこの日の会合への出席を桂に誘われていたが、自分が影の人斬りであることを理由に断っている。(コミックス巻之十九P153)もし出席していたら...そう考えながらこの辺りを散策してみたい。 |
【主な交通機関】 |
京都駅から地下鉄烏丸線 御池駅で地下鉄東西線に乗換 京都市役所前下車徒歩約7分 |
京都駅から市バス205,5他 河原町三条下車徒歩約2分 |
【ちょっと便利情報】 旧暦変換ツールをご紹介。 ■こよみちゃん(シェアウェア/Windows版、Macintosh版) 旧暦と西暦の変換ができる。シンプルで良い。 >>>http://www.nagi-p.com/ |
制作/管理:比古原 ■ 情報/感想等お願いします |
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